■□~男と女~■□ 2009年2月号(2009年1月28日発行)

 新春早々、NHKスペシャル3回シリーズ「男と女」を見ました。恋愛感情は古代、2足歩行の開始後、産道の狭窄により子供を未熟状態で産まなければならなくなった人間が、男女協働で子供を3歳まで育てるために発達させた時限的機能であり、現代でも恋は3年で冷め、また離婚は3年目が一番多いというのは、大変興味深かったです。そして、Y染色体の崩壊により男性は絶滅の危機に瀕しているという事実は非常に衝撃的です。更に、高度な文明を維持していくためには血縁的な安定が必要であり、そのために一夫一妻制が確立してきたわけですが、それが結果的に人間の精子を競争から隔絶することとなり、人間は今、急速に生殖能力を失う一方、それを生殖科学の進歩により補うという、神様と科学のイタチごっこが既に本格化しているという現状には色々と考えさせられるものがありました。

しかし、上記のようなことは、正直どこか遠い絵空事といいますか、自分にはあまり差し迫った問題と感じることはできず、それよりも、今、現在の問題として関心をもったのは、進化の過程において形成されてきた様々な男女の違いが今の世の中にもたらしている影響と、その対応方法でした。一言で言えば、男女の根本的な違いとは、男が課題に対するソリューションを即時に出すことに価値を置き、それを実現させる手段として、過去にとらわれない適時の状況判断、また、迅速な意思決定と行動を担保するための権限の明確化と役割分担、いわゆる‘組織理論’を非常に重視する一方、女は、時間をかけても段階的なプロセスを踏み、全体に納得感のあるソリューションを出すことを第一義と考え、そのために過去との一貫性を保つための記憶とお互いの考えていることを理解するための‘コミュニケーション’ に大きな価値を見出すということになります。
この違いは、男が古代、獲物及び周囲の環境が刻々と変化し、一瞬の判断と行動の遅れが、まさしく命取りとなる狩猟を担当したのに対し、女は緩やかな状況変化の中で、着実かつ勤勉に成果を上げることを求められる採集を担当したことからくるものですが、現在に至ると、その違いの度合いは、歴史の経過において、生活の基盤が狩猟にあったか農耕にあったか、あるいは宗教的に信じるところが何だったか等により、民族や国ごとにかなりの開きが出ているようです。
 例えば、日本は永く農耕を生活の基盤としており、宗教的にも、創造主のみを神とあがめる一神教ではなく、世の中の様々な要素を代表する神々を奉る多神教が主流でした。また、古来から怨霊信仰がありますから、怨霊を発生させる恐れのある個人の突出を嫌い和を大事にしますので、世界的に見れば、日本の男性は相当に女性的であると言えるでしょう。実際、日本の組織では、例え男が中心で構成されていても、権限の明確化や迅速な判断、行動は一般的に好まれません。「いつの間にか、誰かが、なんとなく」を旨とし、いわゆる根回しが慣例化しています。
 しかし、では日本の男は他国の男と比較して、コミュニケーションが上手く、プロセスと一貫性を大事にするのでしょうか?その答えは日本の女に聞いてみるとよいでしょう。聞かなくても答えは見えていますが、まあ、「サイテー。」ということになると思います。まず根回しですが、これが女から見てコミュニケーションといえるか。私は男ですから、絶対的なことは言えませんが、おそらく女ならこう言うのではないでしょうか?「あれは、ただ、そうなるに決まっていることをひとりずつ説明しているだけだからコミュニケーションではない。中には、『俺は許さんぞ!』などと格好をつける人もいるが、最終的には許すことを両者わかっているのだから、これはコミュニケーションのふりであり、コミュニケーションではない。」次に、「報・連・相」。多くの日本の男は、これこそ、コミュニケーションの中枢だと思っていますが、女から見ると、「報・連・相」が重要だと声高に唱えている男は、単に自分が情報に乗り遅れるのが怖いので、情報提供を求めているだけであり、「報・連・相」したところで、その情報を自分勝手に分析し、トンチンカンな即断をするだけで決して自分のことをわかってくれようとはしないのだから、これもコミュニケーションではない、ということになるでしょう。更に、女からみて「痛い」のは、酔っ払い男のこの発言でしょうか。「言うべきことはすべて言っているのだが、いくら言ってもわかってくれない。とにかくコミュニケーションが大事なんだよ。やはり酒を飲みながら、腹を割って話すしかない。」女にとってコミュニケーションとは、まず相手のことを理解することであり、また、言語はそのためのひとつのツールではあってもすべてではありません。コミュニケーションとは、それまでの記憶を総動員して行うもっと総合的なものです。自らの狭い価値観を言語にして発すればコミュニケーションであると勘違いしている上に、この神聖なるコミュニケーションという営みをなんとアルコールで汚そうとする、これはもう、女にとっては、猿以下ということになるようです。
 いくら男度合いが低いといっても、日本の男も、所詮、男です。アメリカの男には、先祖が狩猟民族であり、より男的要素を強くもっている人が多いですが、女の社会進出が早くから活発化し、随分と女に鍛えられたアメリカの男達は、女から見るとむしろ日本の男よりはコミュニケーションの本質を少しは理解している、というのが一般的な見解になっているような気がします。
一方、女のコミュニケーション重視、組織意識の薄さが、弊害をもたらす状況というものもあります。刻々と状況が変化する混沌とした状況下で、とにかくある目的のために行動を起こしていかなければいけない場合、何が一番必要でしょうか。こういう場合にコミュニケーションなどをしている暇はありませんが、かといって個々人がバラバラに行動したら、何が目的なのかを見失ってしまいます。こういう時にこそ、事前に決められたルールに基づく意思決定と行動、すなわち組織行動が必要となるわけです。
 昨年のNHK大河ドラマ「篤姫」が危機に毅然と対応する強い女として、女性を中心に大変な人気だったようですが、男の私から見ると、幕府の存亡の危機という急を要する事態のもとにおいて、「家族愛」なる小さな価値観を持ち出して事に当たるのはとんでもない間違いです。大河ドラマはあくまでもドラマであり、実際の篤姫がどうであったのかはよく知りませんが、少なくとも、ドラマにおける篤姫の行動の全ては、つまるところ、亡き夫徳川家定への愛情に動機付けられたものであり、日本の将来を考えた行動でもなければ、幕府に仕える数多くの人々のことを考えたものでもありません。にもかかわらず、忙しい大老の井伊直弼を呼びつけ、のんびりとお茶なぞ飲んで、「お主の考えはよくわかった。」と、とりあえずコミュニケーションは成立。しかし、コミュニケーションが成立してもこの場合、意味はないのです。篤姫には何の権限もないのですから。この場合、必要なのは組織行動ですから、篤姫が本当に自分が中心となって幕府の危機に対処して行く覚悟があるのなら、やるべきことはコミュニケーションではなく、自分に全権を委任せよという交渉であり、闘争です。
 人間の文明は進化し、今は昔のように、男女間で明確な役割分担を行う必要はなくなりました。その代わりに、男女は同じ目的のために協働しなければならなくなったわけですが、そうなると、どうしてもお互いの本能がぶつかりあい、すれ違いがおきてしまいます。正月に妻とテレビで「ヒーロー」という木村拓哉と松たか子主演の検察ミステリー映画を見ましたが、私にはこの主演2人の恋愛関係確立に向けたコミュニケーションの場面が多すぎて一向に事件が解決しないのでイライラしてしまいました。思わず、「恋愛は禁止にしていただきたい。」と言ってしまいましたが、妻にしてみれば、この2人がどうなるかの方が事件解決よりも重要なのだそうです。このように男女は、すれ違います。しかし、私も少し成長しました。若い頃の私であれば、事件解決映画における恋愛要素がいかに映画全体をだれさせ、不要な存在であるかについて、相手が聞いていようがいまいが、明確な事例をいくつも挙げて説得を試みたと思いますが、今は、恋愛場面中は歯を磨くなど時間を有効活用することで、妻との協働は可能となっています。男も女も本能には逆らえないところは多く、できることとできないことがありますが、まずは、相手の本能を知ることにより、状況は大きく改善するというところでありましょう。

代表執行役CEO  奥野 政樹