テレビが犯した三つの大罪

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お休みの日のブログ、ちょっと長いめ記事の第三弾です。
自分のブログでも反響のあった記事について、もう一度考え直してみました。

しばらく前に、自分のブログで『テレビの二つの原罪』と題したエントリーをアップした。
このときいただいたコメント、最近読んだ本の内容などを合わせて、
もう一度考え直してみた。
テレビの原罪はどうやら三つあるようだ。
あるテレビプロデューサーの告白


とあるセミナーで、引退されたNHKのテレビプロデューサーがしみじみと語っておられた。自分は30年間、どっぷりとテレビ業界に浸かり、数多くの番組を世に送り出してきた。もちろん、そのことを誇りに思う。しかし、テレビ業界を離れて世の中を見るとき、取り返しのつかない罪を犯したかもしれないと。


彼がいう罪は三つ。まず一つめは視覚(+聴覚)への過剰依存状態へと多くの人々を導いてしまったこと。もう一つが「東京的価値観」による全国均一化である。そしてもう一つ、何より恐ろしいのがテレビを見る=脳を休める=思考停止に陥る人たちが増えることだ。


大罪その一.視覚への過剰依存状態


テレビは、圧倒的な視聴覚メディアである。制作者は、視聴覚をフルに刺激することでおもしろい番組を作ろうと必死に努力する。だから、放送される番組は、それなりにおもしろい。視聴覚を徹底的に刺激するおもしろい番組を流し込まれ続けた結果、視聴者に何が起こったか。


毎日毎日、テレビからあふれ出してくる膨大な番組を見続けているうちに、人は五感のバランスを狂わせてしまった可能性がある。テレビが刺激するのは、ひたすら視覚であり聴覚である。


人間の五感はそもそもテレビありの世界を前提として備わっているものではない。本来なら過酷な自然の中で生き延びるために研ぎ澄まされてきたのが、人間の五感だ。にもかかわらず視覚と聴覚だけが異常に偏って刺激され続けるとどうなるか。


視覚、聴覚はおそらく発達し(といってもテレビオリエンティッドに)、相対的にその他の感覚は衰える。使わない感覚は少なくとも発達しないし、刺激を受けなければ衰退する可能性が高い。これがテレビの原罪,その一である。


大罪その二.東京的価値観による全国支配


テレビ番組は、どこで、誰が作っているか。圧倒的に東京である。関西をはじめ地方制作の番組がないとはいわない。しかし、全国ネットで放送される割合がどれぐらいあるかといえば、せいぜい全体の数パーセントに過ぎないだろう。


ということは全国ネットで見る番組のほとんどは、東京の人たちが東京的価値観(がどういうものかという定義はここではカッコに入れておく)に基づいて作られたものである。もちろん、東京的価値観の中にも多様性があることは認める。しかし、全国に散らばって存在する多様な地方的価値観が、東京発の番組に組み込まれることはないだろう。


その結果、何が起こるか。あえていうなら(多様性を持ってはいるが)東京的価値観による全国の均一化である。東京発のドラマに登場する人物、描かれる風景は、仮にそれが地方をテーマとしてはいても東京的価値観に基づいて選ばれ、脚色されている。


そうした価値観に基づいて制作された「おもしろい」番組を見続けているうちに、人はそれが「おもしろい」ものだと思うように洗脳されるだろう。少し飛躍があるかも知れないが、それこそが「価値あるもの」と考えることだってあるだろう。


だから、テレビの影響をより受けやすい(=価値観の確立していない)若い人たちほど、東京へ行きたい、とおもうのではないか。さらにいうなら、そうした若い人に残ってもらいたいがために地方都市は軒並み東京ライクな風景になってしまったのではないか。


大罪その三.脳を休ませてしまうテレビ


さらにもう一つ、恐ろしい指摘がある。これは任天堂の脳トレシリーズを開発された東北大学・川島隆太先生から伺った話だ。先生曰く「テレビを見ていると、脳の処理能力が楽をします。楽をすると、人は本来持っている能力を失っていきます。クルマが人間の歩く力を弱らせてしまったように」。すなわちテレビ三つめの大罪とは、人間の脳の能力を弱らせることだ。


なぜ、テレビを見ると脳が楽をするのか。この問いに答えるには、テレビで時々問題になるサブリミナル効果の話が参考になる。サブリミナルとはテレビで放映されるフィルムの中のわずか1コマに、本来の内容とはまったく関係のない絵を差し替えていれることをいう。


サブリミナルは問題があるとして、この手法をテレビ番組で使うことは禁止されている。なぜ、問題あるかといえば効果がある可能性があるからだ(現時点では確実に効果があると言い切れるだけの実証データはないらしい)。


ただ経験的には効果がありそうだということで意見はほぼ一致しているようだ。つまり脳はテレビ番組から与えられる情報量ぐらいは潜在意識下で楽に処理している可能性が高い。逆にいえば、同じ京都の風景を対象としても、リアルにその場所に立って見るのとテレビで放映された画面を見るのとでは、伝わってくる情報量には莫大な差があるのだ。


ということは、テレビを見ていると脳は明らかに楽をしていることになり、楽をしている時間が長ければ長いほど(=脳が楽をすればするほど)脳が本来持っている能力は衰えていくことになる。しかも、何か事件があったときにも、その意味を自分で考えようとしなくなる。なぜなら、いわゆる有識者やコメンテイターたちが、さももっともらしい意見を言ってくれる。その中の気に入ったものを自分の意見だと思い込めば、それで人と話をするには十分だから。


人は持てる能力の10分の1も知らずに死んでいく


「人間というのは、自分の才能の十分の一も知らずに死んでしまう動物なんだ」(『マイ・ビジネス・ノート』今北純一/文春文庫、2009年、159ページ)。


逆にいえば、人間の才能は自分が思っているよりもはるかに大きく豊かなのだ。その才能を使わないのは余りにももったいないではないか。とりあえずテレビを見る時間を減らす、絞る。それだけでも脳は楽をしなくなる。視覚、聴覚に過度に依存するのではなく、嗅覚、味覚、触覚を意識して使う。そのことによりおそらくは、人が本来持っている感覚は研ぎ澄まされ、第六感を養うこともできるだろう。


普段の暮らしの中で、少し心がけを替えるだけでもっと自分の能力を使う生き方がきっとできる。子どもは特に、大人だって決して手遅れなんかじゃない。始めるなら、今からだ。


※参考
『現代人のための脳鍛錬』川島隆太/文春新書
『マイ・ビジネス・ノート』今北純一/文春文庫