光箱®(置型・掛型)
地下鉄でジョグ
- 2009/11/15 15:00
- 投稿者: takebayashi
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気持ちよい天気だったので
地下鉄に乗って国際会館まで行って
鴨川沿いを走って帰ってきました。
9.3キロを1時間ちょっとで
走ってきた。というか歩くより少しだけ早く移動した、ぐらいの表現の方がフィットするのだけれど。ともかく自分の意識としては、歩くのではなく走ったのだ。ちなみにこのペースを仮にあと33キロほどキープできれば、フルマラソンを4時間台で走りきれることになる(絶対に無理だけど)。
京都といえば駅伝である。京都の駅伝といえば出発とゴールが西京極競技場、折り返し地点が国際会館と相場が決まっている。んならその国際会館から走ったろうやないかと思ったわけだ。といっても住まいのある町中から走っていったのでは、おそらくたどり着くだけで力尽きてしまうはず。なので行きはよいよいとばかり、地下鉄に乗っていった。280円なり。
で終点の国際会館で降りて、地上に出る。日差しはそれほど強くなく、風もまあまあ。ジョギング日和といっていい。走り出す。時間がわからないので老夫婦に尋ねたら、旦那さんの方には何となく警戒され、おばあさんの方が少しびびりながら(に見えたのだ、気のせいだと思うけど)12時15分だと教えてくれた。
ほどなく宝ヶ池のトンネルを抜ける。おぉ〜、なつかし。まさか、このトンネルを走ることになるとはね、などとと思いながら軽やかに走る。基本下り坂なので、非常に足取りが軽い。飛ぶようにとまではいわないけれど快調、快調。
というペースはしかし、坂を下りきったところでぱったりと終わった。妙に軽く走れてしまった分、若干オーバーペースになっていたようで路面の傾きによるサポートが無くなると、一気に足が重くなる。足取りに勢いが無くなると、たちまちにして気分的にも重くなる。ほんまに家まで走って帰れるんやろか。
今なら松ヶ崎から地下鉄に乗ったら帰れるなと一瞬思ったが、地下鉄代が足りないことに気がついた。少なくとも今出川あたりまで戻らないと、地下鉄には乗れないのだ。しゃあない、気を取り直して歩くように走る。以前、ある人から「体力作りに走るんやったら、ほとんど歩くのと同じぐらいの早さでいいんです。それぐらいのペースで長時間走ることが一番体作りになりますから」と教えてもらったことがある。この言葉をとりあえず本日の心の糧とすることに決める。
速く走らなくても良いのなら、気は楽である。時々信号で止まったらラッキーぐらいに思っていればよいのだ。何もこれ見よがしにその場ジョグなどせず、だらしなく休んじゃって全然オケーである。そう、だって別にフルマラソンに完走しようとか思ってるわけじゃないんだから。
じゃ、何のために一時間も走るのか。目的は自分でもよくわかっていない。ただ一つだけ、何となく思っているのが、一時間ぐらい走り続ければたぶん、頭の中が空っぽになるだろうということ。まあ、ちょっとした非日常的体験である。健康のためとかではなくて、あえていうならこれも自分流のGTDといえなくもない。
つまり頭の中にあるあらゆるタスクを書き出すことで、頭を空っぽにすることがGTDでは重要なポイントである。ならば、走ることで一時的に頭の中を真っ白にすることも、プチGTDといえなくはないか。というようなことを走っている間に思いつく。ということはちっとも頭の中はすっからかんとはなっていないわけだけれど。
下鴨本通りから出町で鴨川に降りる。ここからは川沿いの遊歩道を走る。やはり土の道は、体に優しい。何しろ履いている靴が、たぶん10年ものぐらいのヴィンテージシューズである。確かそれぐらい前に走ったホノルルマラソン用に買った靴を、後生大事に使っているのだ。靴底も相当すり減っており、アスファルト道ではいささか衝撃がこたえる。
ところが川筋は風の通り道でもあるわけで、まともに向かい風を受けることになった。なんで下流から風が吹き上がってくるのかがわからないのだけれど、ともかくきつい。よって走る(というか歩いているというよりは程度だが)速さも、どんどん落ちる。途中で高校生ぐらいの兄ちゃんがえらい勢いで抜いていきやがった。一昔前なら「なにくそ!」とばかりに追いかけたところだが、こちとらもうアラフィフである。自重するのである。
などと思いながら走っているといつの間にか丸太町を超え、二条まで来たところで階段を上がって通りに出た。なるべく観光客が少ないところを選んで走り、信号ではきっちり止まって休み、家に戻ったのが1時間10分後ぐらい。なかなかに気持ちよい体験となった。
まあ、頭の中はちっとも空っぽにはならず、次から次へといろんなあぶくみたいな思いが浮かんでは消えを繰り返していたのだが、ゆったりと長風呂に浸かっているうちにそうした思いのほとんどは消え失せた。