「雫~SHIZUKU~」野菜染めタオル
■□迷惑■□ 2009年6月号(2009年5月28日発行)
日本人は、自分が他人の迷惑になることを非常に恐れます。一方、他人の迷惑になることを恐れている人は、他人から迷惑をかけられたと感じると非常に怒る。いつからそうだったのか私にはわかりません。わかりませんが、なんとなくそんなに古い話ではなく、戦後こうなったのかなあという気はします。根拠はありません。ありませんが、もしかしたら、昭和の戦争で国民は国に大迷惑をかけられたという気運が戦後盛り上がり、その反動で大掛かりな迷惑排除文化の創出へとつながったのではないかとも思います。
歴史についてはよくわかりませんが、今のことなら多少わかります。最近よく、親の子供に対する躾がなっていないなどという意見を聞きます。まあ、こういうことをいう人達は、自分は現在子育てをしていない、つまり現場のことを知らない外野の人達であり、電車の中で子供の靴先が少し自分の衣服に触れたとか、マンションの廊下を子供達が1日2回走る靴音がうるさいといったことで迷惑をかけられたと怒っている人達です。私も子育てをしており、時々このような批判の声に晒されますが、人間の子供はペットではないので、そもそも躾けるものではなく、育てるものだと私は思っているので、このような外野の声はまったく気になりません。
しかし、日本人は基本的に、自分が他人の迷惑になることを非常に恐れるのです。外野から、今の親は子供の躾もできずに迷惑だと言われたら、多くの親は、それはもう、自分が他人に迷惑をかけない躾のできる親であるということを証明するため躍起になってしまいます。私の言うことが嘘だと思われる方は、一度、平日に近所の公園に行かれてみるとよいでしょう。そこで遊ぶ幼児一人一人の傍らには、母親が始終影のように付き添っています。付き添って何をしているかといえば、勿論、子供達の安全を確保しているという一面もあります。しかし、それであれば、子供達がもう少し自由に遊べるように距離をとる方が得策です。にもかかわらず、なぜピッタリと親が子供にくっついているかというと、それは自分の子供が他の子供に、そして、ひいてはその子の親に迷惑をかけないように管理・指導するためです。
「さー、○○ちゃん、あなた、もうブランコ30回こいだから△△ちゃんに交代よ。順番、順番。」
「あら、今□□ちゃんにお砂がかかったわよ。さ、ごめんなさいして。はい、ごめんなさい。(言いながら無理やり自分の子供の頭を下げる。)」
このような会話がそちらこちらから聞こえてくるでしょう。子供同士でちょっとしたいさかいでも起きようものなら、もう大変です。親同士、よく事実確認もしないで、自分の子供こそが悪いのであり、申し訳ないとお互い譲らず、謝罪合戦になってしまいます。そしていたるところから、「そんなことしたら、周りの人にご迷惑よ。」というすべてを押さえつける大教条が子供たちに対して唱えられるのが聞こえてくるはずです。
まさしく、一億総アンチ迷惑躾狂時代。見ていて滑稽なのですが、笑ってばかりもいられません。こうしてペットのように躾けられた子供たちは、社会性の発育が遅れ、小学校に入ると子供同士で社会活動を営むことができず、ちょっとしたことで学級崩壊を起こしたり、過剰ないじめが起こってしまいます。これをまた、自分は躾に厳しいということを自認している親が、悪いのは学校だとか、相手の親だとか言って怒鳴り込んでくる。いわゆるモンスター・ペアレントと呼ばれるものですが、迷惑をかけることを恐れる人ほど、自分が迷惑をかけられると怒る、の法則が具現化しているといえるでしょう。
他人に迷惑がかかることは勿論喜ばしいことではありません。難しい状況は多々ありますが、自己の利益だけのために他人をいつも犠牲にするのは、基本的によくない。ましてや、他人に嫌がらせをしたり、他人をだましたりするのは非難されて当然でしょう。しかし、人間と人間がお互いに繋がり合って世の中は成り立っています。誰かが動けば、それは連鎖して必ず他人に影響が及ぼされるのです。そして、大元にある行動の動機がいくら濁りのないものだったとしても、その影響で他人が困惑したり、不快な思いをすることになる場合はいくらでもあります。しかし、他人に迷惑をかけたくないからといって、その大元にある行動をやめてどうなるというのでしょうか。それは、本来やるべきことが、他人に迷惑がかかるかもしれないという理由だけでできなくなってしまうということであり、社会的には有意義な行動の多くができないということになってしまいます。
世の中が大きな人の繋がりの中で動いているのに、自分の周りの人にだけは迷惑をかけまいという縮こまった発想に大きな意義はありません。周りの人に迷惑がかかってもやらなければいけないことはたくさんあるし、また迷惑がかからなくてもやってはいけないこともあるのです。例えば、ある日突然、自分の銀行口座に覚えのないお金が100万円振り込まれていたとしましょう。誰かが間違えて振り込んだのでしょうが、どういう訳か誰も返して欲しいと言ってこない場合、そのまま黙っていても周りには特に迷惑がかからないでしょう。しかしそれでも、これは警察に届けるべきです。理由は法律で決まっているからでも、なんだか気味が悪いからでもありません。その理由はただ一つ、この100万円をそのままにすることは、自分が盗人であることを自分に対して証明することになるからです。一度盗人になってしまった人は、それを精算しない限り、ずっと盗人です。盗人にはなりたくないからこの100万円は警察に届ける。周りに迷惑がかかるかどうかなどまったく関係ありません。
周りに迷惑をかけないことばかりに気を遣っていると、ごく近しい一部の人間以外とはつきあうことが難しくなり、やがて人間関係に行き詰ります。これは不幸なことです。未来のある子供たちにこういうことを教えてはいけないのです。教えるべきことは、もっと人生の幸せに繋がる事、すなわち他人に施され、施すこと、お金に溺れず働くこと、ずるいことをしないこと、そして勝負すべきときは他人に迷惑をかけても勝負すること、まあ、このようなことなのではないかと私は考えています。
代表執行役CEO 奥野 政樹