教養について考えてみた

昨日の「なぜ日本人は学ばなくなったの」と、「人生は勉強より「世渡り力」だ!」を続けて読んだせいか、知識や教養って何なんだ?と気になってきました。

考えるとはなしに考えていてる時に、以前、読売新聞の文化部の記者の方に「ライターさんと評論家の違い」について伺ったのを思い出したので、今日はそのことに絡めて書いてみたいと思います。

ライターと評論家は、いずれもある対象の物事を誰かに伝える職業で、テレビなどでもその使い分けが明確にはされていないように思っていました。

しかし、その記者さん曰く、ライターと呼ばれる職業は「提灯記事でも何でも、その対象に興味を持たせることが目的の文章が書ける人」である。対し て、評論家とは「その対象の歴史的な位置づけと、社会的な位置づけを明確に解説し、その対象が”今あることの価値や意味”を評価し伝えることができる人」 である。という明確で絶対的な違いがあるのだと仰っていました。

こうしてみると、評論家が評論家たるには、かなり高度なハードルがあるように思われます。が、このハードルを越える能力のベースとなるものが、まさに教養ではないか?と思ったわけです。

まず歴史的な事象に関する知識とその意味の認識。社会の動向に対するアンテナとその理解。そして、それらを総動員してその時々のお題(対象)について解説し伝える能力。それらの総合力が教養ではないか?と。

そう。教養とは、物や事とは違う。総合力。力。色々な要素に裏打ちされた能力のこと。

その(”教養とは総合力だ”という)認識が正しいとすると、これは何かに似ている!?

そうだ、お金だ!!!

■お金はたくさん持っているとそれだけで安心できる。(たくさん持ったことはないけれど・・・)
■お金はさらにお金を生むことができる。(投資もした事ないからあんまり生んでもらったことはないけれど・・・。)
■お金の価値は時勢によって変わる。(最近の各相場を見てればそうですなぁ。。。)
■お金は使う時に初めて価値を生む。(欲しい物を買って手に入れた時などがそうですな。)

と、思いつくままに書き出してみたが、この「お金」の部分を「教養」に置き換えても同じことが言えるんじゃないか?
ふむ。(<ひとり納得の姿)
教養というのは、どうやらお金と非常によく似た特性を持っているもののようです。

まぁ、そんなことを考えたからといって、お金も教養も身に付いたわけではないのだけれど。ちょっとはすっきりした気分かな。

「教養はこうやって使うんだ」というヒントが書かれた本があるのを思い出したのでご紹介しておきます。
この著者って、僕と同い年なんですよねぇ。う〜〜。全然負けてるよなぁ。

新教養主義宣言
著者/訳者:山形 浩生
出版社:晶文社( 1999-12 )
定価:¥ 1,890
単行本(ソフトカバー)
ISBN-10 : 4794964153
ISBN-13 : 9784794964151