メイキングof『首長パンチ』1 本はこうしてできあがった

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12月8日、講談社から『首長パンチ』樋渡啓祐著が出ます。
市民病院問題解決のために繰り広げられた、
市長と医師会の仁義なきバトルを描いたノンフィクション。
この本の制作に編集として関わられてもらいました。
そこで、この本がどうやってできあがったのか。
内幕話を書いてみたいと思います。
すべては取材後の一本のメールから始まった


12月8日、佐賀県武雄市長、樋渡啓祐氏の本が出る。


タイトルを『首長パンチ』という。この本の制作に、編集として関わらせてもらった。今年の初め1月から企画が始まり(といっても、仮のゴーサインが出ただけだけれど)、なんやかんやで11ヶ月、来月8日にいよいよ書店に並ぶ。なかなか感慨深い。


そもそも、樋渡市長と知り合ったのは2008年の夏だ。毎月レギュラーで取材から原稿執筆までを担当させてもらっている企業情報誌の取材で、お会いした。全国最年少の市長さんということで話を伺ったのだが、これがおもしろい。いわゆる「市長たるもの、かくかくしかじかせねばならぬ」的行動を、すべて無視しているというか、ノンセクトラジカルとでも言えばいいか。


市長がそんなことしちゃあ、という禁忌がまったくない方である。そうした因習、自己規制何するものぞ。市民のためになるように考えたら、こうなるんじゃないの、と思い込んだら、それで突っ走る。おかげで「暴走特急」というあだ名がついたという。しかし、その結果、武雄はよみがえった。寂れきっていた地方都市が、今では全国から年間百近くもの自治体が視察に訪れる街へと変身している。


理由は簡単である。「そんなこと市長が言っちゃおかしいよね」とか「そういうことを市役所でやらないでしょう、普通」といったことを、どんどんやってきたからだ。だからといって単なるスタンドプレイに走っているわけじゃない。そんなことなら、誰よりもまず武雄の市民が黙っちゃいない。


違うのである。樋渡市長が具体化するのは、市民の「こんなふうになったらいいのになあ」とか「市役所でこんなことしてくれたら助かるのになあ」といった思いである。加えて、首長だからこその「武雄の知名度を上げて、全国各地から人が来てくれる街にしよう」という視点に基づいた行動である。


その行動が速い。全国最年少の肩書きこそ、樋渡市長に続く方に譲ったものの、まだ40歳になられたばかりである。思いついたら、すぐに動く。しかも市長の役割はトップ営業だと心得て、突破口はいつも自分が開く。難しいのは、最初にドアを開けてもらうことなのだ。ひとたび扉が開きさえすれば、あとは実務部隊がきちんと処理していけばいい。


とまあ、そんな話を伺って取材は大成功。武雄温泉の泉質はすごくきめ細やかで、お肌もすべすべになったし、めでたしめでたしで終わったと思ったら、ネットのニュースを見てびっくりした。


『市民病院問題で、武雄市長リコールへ!』といった記事が流れている。ちょうどその頃、日本全国で市民病院問題がクローズアップされていた。要するに医師不足のために、市民病院は極度な赤字に陥っているのだ。少しだけ説明すると、医者がいないから、まともに診察を受けることができず、ゆえに診療報酬が減る。その結果、赤字になるというカラクリだ。


関西では松原市民病院が閉鎖された。関東では銚子市の市立病院が閉鎖された。銚子市の場合は、市長が「市民病院閉鎖反対」を訴えて当選したにも関わらず、公約をひっくり返したために、市民が激怒する騒ぎになっていた。


同じことが武雄市でも起こっていたのだ。そういえば取材時に「市民病院がなんとか」と書かれたチラシを見た記憶があるけれども、まさか、武雄市が同じ問題に陥っているとはまったく知らなかった。


しかし、樋渡市長がリコールになると聞けば放っておけないではないか。取材でお知り合いになった縁もある。もしかしたら、何かお手伝いできることはないかと、市長にメールを送ったのだ。とはいえ、まさか市長さんから直接、返事が来るとは思っていなかった。ただ、取材時の印象が強烈に残っていただけに、本当に何かできればと思っただけなのだ。


ところが、すぐに返事が来た。


メールにはていねいな謝意が述べられており、リコールではなく再選挙に打って出たこと。この騒動が落ち着いたら、市民病院問題に関する一連の動きを何かのかたちで残したいこと、が綴られていた。思えば、このときのやり取りが、今回の本のキッカケになったのだ(続く)。