■ □WBC優勝 ■□  2009年4月号(2009年3月30日発行)

‘SAMURAI JAPAN’WBC優勝。大会を通じて不振だったイチロー選手が最後に決めて優勝とは、あまりにできすぎていて怖くなりますが、ギリギリのところの勝負というのは、えてしてこのような劇的なフィナーレを飾るものなのでしょう。
 それにしても野球母国の米国は今回も冴えませんでした。前回のように、米国人審判による明らかに意図的な米国寄りの誤審があったにもかかわらず2次リーグで敗退という醜態こそさらしませんでしたが、相変わらず個々の選手の高い技量はチームとして結実することなく、危なっかしい試合運びを繰り返した挙句、準決勝で日本に軽くひねられてしまいました。

 米国という国は、どのスポーツにも言えることですが、つくづくナショナル・チームを作るのが下手です。ナショナル・チームというのは、日常は別々のチームでプレイしている、個性の強いスター選手達を召集し、短期間で一つのチームに作り上げなくてはいけません。ところが米国人の組織運営というのは、指揮官が道具としての担当者の個性を公平に用い、組織としての目標達成を目指すというものです。そこには、組織としてのビジョンや戦略を考え、また個々の場面でどの選択肢をとるかを決断する指揮官と与えられた責務を全うする担当者という明確な役割分担があります。逆に言えば、指揮官は業務の遂行には責任はありません。作戦が正しいのに上手くいかなければそれは選手のせいです。だから、米国チームのジョンソン監督が、ゲーム遂行上の選択肢がまだ表れない序盤を、親族の結婚式に参加するために不在にするということが違和感なく行われます。
 一方、担当者たる選手は、自分で考えることは許されません。指揮官の命令を待ち、それを最高レベルで実行する事に心血を注ぎます。勿論、こうした米国流の組織運営が必ずしも悪いこととは言い切れません。それどころか、これは近年、経営参考書などでもてはやされている合理的経営そのものです。ただ、短期間で強い組織を作る上で障害となるのは、指揮官が「担当者の個性を公平に用い」の「公平に」の部分です。日本における公平が往々にして「みんな同じに」であるのに対して、米国における公平とは「実力に応じて適切に」を意味するわけですが、その実力を測るために機会が平等に与えられることが大前提となります。従って、代表チームにスター選手達が集まってきたときに、監督が自分の独断でレギュラーを決めるようなやり方はできません。各選手に、まずは自分の実力を示す機会を与えなければならない。これは時間がかかるプロセスです。ナショナル・チーム同士が対戦する国際大会では、こんなことをしているうちにすぐ本番が来てしまいます。そのため、色々なスポーツの国際大会で米国チームは本大会に入ってもレギュラーが定まらず、スター選手を順番に使っているという例が多々見受けられます。これではとてもチームとしての戦略にまで踏み込んでいる余裕もないし、そもそもチームとしての一体感も生まれません。よって、個々の選手の実力が飛びぬけて高いにも関らず負けるのです。もし米国野球チームに半年の時間を与えたら、私は、やはりまだ米国が世界で一番強いのではないかと思います。
 その点、日本は短期間で寄せ集めたメンバーを一つのチームにまとめて行くのが大変上手い。その秘密はやはり、日本的組織運営の核をなす現場重視主義でしょう。日本では、指揮官と担当者の役割分担はさほど明確ではありません。勿論、指揮官は戦略を立て、決断をするわけですが、その際には現場の意向を十分に考慮しなければならないという暗黙のルールがあります。では、その現場の意向というのはどのように決まるかというと、決して担当者のミーティングで民主的に多数決で決まるものではありません。担当者の中でリーダー格のものが、その言動を通じてある種の空気を醸成することによって形成されるわけです。指揮官はその空気を読み、そこに自分の感覚を上手く配合することによりその空気に栄養分を与え、組織の各メンバーが吸っていて心地よい状態にまで昇華させる。これがスムーズに行われたときに日本的現場主義は最もよく機能しますし、逆に指揮官が空気を読めない場合や担当者が空気を作れない場合、もしくは指揮官が担当者に空気を作らせない場合には組織は崩壊します。この組織運営は、それまでの価値観を根底から否定するような革新的な動きをするには不向きですが、空気さえ作ってしまえばとにかくまとまるのは早く、指揮官が空気をコントロールできれば、個別の問題に対しては柔軟かつ適時に対応が可能になります。
 今回の‘SAMURAI JAPAN’の場合、指揮官である原監督と現場リーダーであるイチロー選手との空気のやりとりは非常に上手く行ったのではないでしょうか。原監督はインタービューで「自分は何もやらなかった。」といっていました。これは、「自分は野球の細かいことはコーチ・選手に任せて、空気を操ることに専念していた。」という意味だと私は思います。
 最後に、原監督について一言。この人は、私達アラフォー世代にとって、小さい頃から大変なじみのある人物です。高校野球のヒーローとして甘いマスクで甲子園を沸かせ、大学でも大活躍。そして、江川選手の問題で大変ゴタゴタしたプロ野球のドラフトという曲者制度をいとも簡単に突破し、すんなりと巨人軍に一位指名入団の幸運。当初は、当時の巨人軍の三塁手は中畑という人気選手であったため、本来の三塁手ではなく、二塁手として起用されることとなり、レギュラーだった実力派二塁手の篠塚を自らの人気で控えに追いやる形となってしまってややヒールになりかけたものの、中畑選手が怪我をして、自分は三塁へ、篠塚選手は二塁へ、怪我から戻ってきた中畑選手は一塁へという世の中誰もが納得の行く形に落ち着いてしまいました。こうして何もかも事がうまく運ぶ爽やかな原選手に対して、「若大将」というニックネームがマスコミから与えられましたが、世間ではその裏に、「苦労知らずのひ弱なボンボン」、「実力よりも人気の男」というイメージを持った人も多かったのではないでしょうか。
 そうした若大将が数年前巨人軍の監督になると聞いたとき、「苦労知らずのひ弱なボンボンでは上手く行くわけがない。」と思った人は多かったはずです。ところが意外に結果は良かった。ところがその後、何故か2年で解任され、苦労知らずのボンボンも、初めての屈辱にさぞや傷ついたことだろうと思いきや、そのまた2年後、巨人軍から監督への再就任を依頼されると嬉々として快諾。この人には意地というものがないのかなあと、私も大変不思議な気持ちになりました。
 相変わらず巨人軍の監督としての成績はよく、そして今回の‘SAMURAI JAPAN’監督就任ですが、あれだけ監督の人選でもめ、どう見ても裏に一筋縄ではいかないドロドロを感じさせる中で、「ご指名とあればやりましょう。」とばかりの軽いノリでまたまた快諾。その後は、今時流行らないスポ根漫画にでも出てきそうな発言を真顔で繰り返しました。代表候補を絞り込むときに言っていた「私は、切ったとは考えていない、Pick ?Upしたと考えている。」という極めつけの官能発言に、私は背中がむず痒くなってしまいました。
 この人には、とにかく屈託というものがどこにも見出すことができません。とにかく単純かつ真直ぐ。例えば、北京オリンピック日本代表の星野監督にどこか選手よりも周りを見ているような政治的策略の匂いがどうしても漂うのとは対照的です。指揮官がこんなにナイーブで本当に大丈夫なのかなあと、どうしても思ってしまいますが、とにかく成果がでています。
 それも、優勝後の各選手のインタービューを見ていて、少しわかるような気がしてきました。最近の若い選手は、一昔前に比べると謙遜もしないし、自分の考えをストレートによく喋ります。いわゆる主体性が高い。こうした状況の中で、現場の空気をコントロールしていく指揮官としては、原監督のように政治感覚抜きで、ただ真直ぐ無心に現場と向かい合うことが一番求められているような気がしてきました。
 準決勝で村田選手が怪我をし、日本から栗原選手を緊急召集することとなり、前述の「切ったのではない」発言も現実味を帯びることとなってしまいました。うがってみればそこまで計算していたのかなあとも思えますが、原監督なら計算などしていなかったような気がします。これからは苦労の中から這い上がってきた海千山千のリーダーよりも、恵まれた環境の中で多くの良質の経験を積むことによって成長してきたお坊ちゃんリーダーの時代がくるのではないでしょうか。

代表執行役CEO  奥野 政樹